中野四季の森公園を歩いて想うこと・・・

秋も深まるなか、区庁舎に隣接する「中野四季の森公園」を歩いて来ました。休日のこともあってか若い家族連れが目立ちました。

この公園をはじめ、オフィスビル、大学キャンパス、病院などが立ち並ぶ「中野四季の都市(まち)」一帯は、今「なかの新都心」、「中野セントラルパーク」などと呼ばれています。

こに警察大学校があった頃のことを私は覚えています。しかし公園ですれ違う今の若い人たちにとっては、何の跡地かなどあまり関心がないだろうなと、ふと思いました。同時に——私のような中野で生まれ育った年配者も含めて——昔を知っている人も少なくなったのではないでしょうか。かつては陸軍中野学校がありました。さらにその前はとさかのぼって行くと、五代将軍徳川綱吉の犬屋敷に辿り着きます。

中野区役所の正面入り口の脇には今でも鋳造された数匹の犬が戯れていて、その「生類憐みの令」の歴史の証(あかし)になっています。

この「令」については、誰もが日本史の授業でおおよそのことは習ったはずですが、必ずしも正確な資料があるわけでもありません。綱吉(在位1680〜1709)が犬屋敷を作ったのが元禄8年(1695)。これは間違いありません。ただし、収容した野犬の数は最盛期4万頭以上、10万頭以上とも言われています。

中野区教育委員会が発行している「なかのものがたり」では次のような記述があります。「犬には一日に米二合と銀二分とを費やしました。このための費用は三か年で三万五千両かかったそうです」1両10万円で換算すれば3年間で350億円の巨額になります。また「ものがたり」では「当時、中野村の犬小屋と称し、その総面積は約三十万坪にもおよんでいました」

綱吉が没すると、この犬小屋も廃止されます。犬たちがどうなったのかは不明のままですが、八代将軍吉宗(在位1716〜1745)の時代になると、鷹狩のためしばしばこの地を訪れた将軍は、休息の場として御立場(現在の中野3丁目あたり)を築き、ここに紅白の桃の木をたくさん植え「桃園」と呼ばせました。中野村の周り数里は春ごとに桃花が咲き乱れ、まさに桃源郷。江戸中から身分を問わず人々が押し寄せ、花の下で饗宴を繰り広げたとか。

やがて、この桃園にも終りが来ます。安永6年(1777)、この辺り一帯が鶉(うずら)の御狩場となると雑木と一緒に桃の木も次第に伐られてしまいます。それでも明治の末まではわずかながら桃木が残っていたそうですが、「桃園町」という由緒ある町名も昭和42年の住居表示実施により消えてしまいました。

明治時代になると、ここに陸軍の鉄道隊、電信隊、気球隊が置かれ(明治30年1897)、後に交通兵団司令部が置かれ、昭和14年(1939)には陸軍中野学校が移転開設されました。

戦後、跡地には警察大学校と警視庁警察学校が置かれ、平成13年(2001)まで使われました。それらの学校が府中市に移転後、跡地の再開発がなされ、平成24年(2012) 3月23日に区画道路が開通し、「中野四季の都市(まち)」が誕生しました。そして再開発はまだ続けられ、他の施設も計画されています。

中野村の犬小屋から中野セントラルパークまで300年以上が経ちました。まさに栄枯衰勢の歴史です。

面積約1.5haの広大な四季の森公園は、災害時に区民や帰宅困難者を受け入れる避難場にもなっています。長期的なビジョンのもと、これからの公園をどう構築していくのか考えると、防災設備の充実は言うまでもなく、子供達の水遊び場として造った「じゃぶじゃぶ池」のように、誰もが利用できる憩いの場とすることも一層大切です。

森の中を歩きながら、いろんな思いにかられました。